戻る

山田 太郎

生年月日 1952-07-07
出身 山形県
両親 山田太助・山田花代

山田太郎の「私の歴史館」

0. はじめに

はじめに

有名人の自叙伝や自分史は新聞や出版社が取材して連載や出版してくれる。大勢の読者に買ってもらえるためビジネスとして成り立つからだろう。しかし、私のように平凡意生まれて平凡な人生を送ってきた人間でも子孫に残した気持ちというものがあります。自分が父や母や祖父母がどんな人だったんだろうと思っても今となっては知りようがないのが現実だ。生物的には遺伝やDNAといった仕組みで親の性質が子供に遺伝していくのでしょうが、生き方の記録は書き残さない限り伝わることはない。伝統芸能が襲名制度や口伝などで親が子に芸を伝えていくように、平凡であっても自分の歴史や生き方について残しておかないと家族や一族の伝統が消えていってしまうと思う。そこで、私自身の飾りのない人生をここに記録したいと思う。

1. 1章 幼年時代

1.1節 生まれた町

私の出身地は山形県で松尾芭蕉が「五月雨をあつめてはやし最上川」と呼んだことで有名な最上川沿いの町である。町というよりも村といったほうがいいかもしれない。昭和27(1952)年7月7日、山田太郎は父・上野太助、母・花代の長男として山形県に生まれました。当時、父は30歳、母は27歳のときである。

1.2節 私の幼年期

父は祖父のあとをついで農業。母は小学校の先生をしていた。父は朝食を済ますと弁当を持ち野良仕事に出かけ夜まで帰ってこない。母が近所の学校に教鞭をとりに出かけるため昼は家にいない。日本昔話で語られる典型的な家庭と似ていて祖父母が家にいたので私は祖父母に育てられたようなものである。そのおかげで私は結構自由だった。

1.3節 田んぼや畑や川が遊び場

周りは田んぼや畑で裏に小さな川が流れている。家の近くを国道が通っているだけで当時は交通量も少なかった。そんな環境だったので遊び場は田んぼか畑が川で野生のような子供時代を過ごしていた。遊びといっても遊び道具があるわけではなく近所の友達と一緒に野原を走り回ったり虫取りをしたり木に登ったりするくらいで素朴そのものだった。少し大きくなると竹でつり竿をつくり裏の川で魚を釣るのも遊びのひとつだった。川の水は非常に綺麗で季節になると鮎つりもできたが、いつもはほとんどフナだったと思う。釣った魚は母が甘露煮にしてくれた。甘くて生臭さはなく子供には食べやすかったので頭からかぶりついた。噛んでいるうちに苦い部分がでてきた。それははらわたの部分だけど十分煮てあるから大丈夫だと言われたが、えさがミミズだったことを思いだした。苦味の一部はミミズだと直ぐに分かった。夏はそこで泳ぐこともあった。川は天気や水量によって流れが変わるので水泳の上手な人でも溺れることがあるらしいが、私たちは水の状態や泳ぐ場所などを親や近所の人から教えられていたので安全に泳ぐことができた。

1.4節 自然の恵み

家の庭や農道の道端にはりんごなどの木が生えていて季節になると甘くてジューシーなりんごをもいで食べることができた。東京に就職してスーパーで購入したりんごを食べたときにお金を払って買ったりんごが美味しくないのが不思議だった。山椒も家の庭になっていた。父に実を少しかんでみろといわれて咬んで見たら唇がしびれてきた。スーパーの山椒パウダーとは雲泥の差である。魚も天然物と養殖物では全く違うのと同じで、植物も天然物は違う。東京生まれで天然物を知らない人はこの違いを経験できないのがかわいそうに思えた。

1.5節 塩とゴマだけの握り飯

山形は米の産地でもありご飯が美味しかった。素朴なおかずとご飯と味噌汁の食事だったが不満を感じたことはなかった。私は野球のボールのようなおにぎりに白ゴマと黒ゴマをまぶしただけのおにぎりがお気に入りだった。それと漬物があれば満足だった。

2. 2章 小学校時代

2.1節 幼稚園には行かず

私は幼稚園には行かなかった。その頃は幼稚園に行かないことは珍しいことではなかった。今でも幼稚園が子供の教育として必要とは思わない。現在は核家族化して親の時間を作るために利用しているのが本音ではないだろうか。昔は祖父母が同居していたので子供の面倒を見てくれるから母親の育児負担は軽減されていたと思う。

2.2節 近所の小学校に徒歩で通学

小学校には一人で通学した。当時はスクールバスもなく親に連れられて通学するような習慣もなかった。悪く言えば野放しである。それでも危険を感じるようなことはなく、それが当たり前だった。今は過保護すぎるのではないかと感じることが多い。

2.3節 運動オンチ

勉強は算数・理科ガ得意で、国語・社会の方が苦手だった。体育は更に苦手でどちらかというと運動オンチであった。運動会は時に嫌いで無いほうがいいのにと思っていた。

2.4節 芋煮会

秋になるとどこでも芋煮会をやる。芋と幾種類かの野菜を大きな鍋で煮たものをみんなで食べるだけの素朴な会である。会場はほとんど学校の校庭だった。私は運動会よりも芋煮会のほうが好きだった。

3. 3章 中学高校時代

3.1節 山形大学へ

昭和46年4月、私は山形大学の理学部に入学した。大学生活も淡々としたものだった。もともと、大学を選ぶときに東京にいくか山形で済ませるかを考えた同期の生徒もいたが、私の場合は特に上京する気になかった。家庭が裕福ではなかったので東京に出て下宿生活をするのがもったいなかったからだと思う。そこで、県内の大学で十分と考えていた。しかし、大学生活を始めると自分のお金もほしくなってくる。理由の1つはブラスバンドを始めたこと、もう1つはジャズが好きになりジャズのレコードの購入費やジャズ喫茶に通う費用が欲しかったからである。

3.2節 東京でバイト

山形にはいいバイトがなかったが東京にはあった。そこで、夏休みなどを利用して東京でバイトすることにした。地下鉄のトンネル掘りのバイトが一番賃金がよかったのでやってみた。元々運動オンチの自分が体力勝負のバイトをやるとは思わなかったが短期間で効率よく稼ぐために選らんだだけだった。それも一度経験すると二度と選ぶことはなかった。それまで運動というものをしたことがない者がいきなり筋肉労働すること自体無理だと思った。

3.3節 トランペットにはまる

ブラスバンドとジャズは一件違うように思えるが、自分はあまり気にしていなかった。ブラスバンドでは楽器を演奏できることが面白かったが、ジャズは聞くほうが中心となった。楽器はトランペットを選んだ。トランペットにはリードがないのでただ吹いただけでは音が出ない。唇を震わせて音を作りマウスピースに吹き込むようにしないといけないが、それができなかった。練習を続けるうちに唇から血が出てくるとある本で読んだことがあったがそれは本当だと実感した。音が出るようになると音階取れるようになる。音階は3つのバルブを閉めたり開いたりすることで作る。数学的にいうと8進数である。2の3乗=8でオクターブを表現できる。トランペットは数学的にできているのである。元々西洋の音楽自体が数学的だが。

3.4節 ジャズ

ブラスバンドをやっていたせいでジャズはビッグバンドが好きだった。安いステレオを買ってレコードをかけて聴いたものである。ジャズを聴くときは自然とお酒が合う。特にグラス片手に洋酒を飲みながら聴くのが一番いい。私の常用酒はサントリーの角だった。つまみはするめかピーナッツが少々あればよかった。勉強以外はそんな生活をしていたためか、お酒は一生の友になってしまった。社会人になってもやはりウィスキーは角だった。

4. 4章 社会人時代

4.1節 東京に就職

大学までは山形で済ませることができたが、就職となると地方には職がない。そこでやっと東京に出ることを決意した。当時は電子計算機の開発競争の時代でその人材募集が多かったので、日本電気株式会社という電気通信関連の会社に応募したらすんなりと採用された。今ではコンピュータで有名だが当時は電話機や無線通信機器などを作っていてほとんど一般には知られていない会社だった。この会社を選んだ動機は専攻や興味とはまったく関係なく、アルバイト経験からデスクワークができて家電メーカーでない会社の中から選んだだけで、かなりいい加減な選択だった。

4.2節 情報処理部門に配属

当時はIBM(インタナショナル・ビジネス・マシンズ)というアメリカの会社がコンピュータで世界の70%くらいのシェアーを独占していた。日本の会社でも日本電気、富士通、日立製作所、沖電気、三菱電気などが国産のコンピュータを開発し販売していたが、まだ電子計算機と呼ばれていたくらいに計算業務が主体でIBMに比べれば幼稚なレベルだった。国産各社は、IBMに「追いつけ追い越せ」と独自のコンピュータ開発をしていたが、当時のIBMは国家予算並の開発費を投入できるくらいの資金力で新機種を開発販売しているのでテレビ・洗濯機・電話機・発電機などいろんな分野の製品を作っている総合電機メーカーといわれる会社が少額予算で追い越せるはずがなった。そんな中で、通産省(現在の経済産業省)が音頭をとってIBMを凌ぐコンピュータを作るという巨大プロジェクトが進んでいた。こんな状況のなかで私はコンピュータの世界に入ることになった。

4.3節 コンピュータはソフトウェアの時代へ

コンピュータには大きく分けてハードウェアとソフトウェアの2つの分野があった。ハードウェアはコンピュータの機械でソフトウェアはプログラムである。私は後者に配属されプログラムを開発することになった。

4.4節 当時のコンピュータの大きさ

当時の大型コンピュータは、箪笥のようなCPUや・洗濯機のようなハードディスク装置・自動車のタイヤのようなディスクパック・大型冷蔵庫のようなメモリなどで構成されており、専用の電源と空調設備の整った巨大な部屋の中に宝物のように設置されていた。それでもハードディスクの容量は100MBあれば大容量で、メモリは1MBなど夢のまた夢であった。当然、XX億円単位の高価なもので資金力のある企業しか持つことができなかった。メモリ数GB内臓が当たり前の現在のパソコンと比べるとメモリだけでも1000倍以上の差があった。

4.5節 国家プロジェクトに参加

幸かにも不幸か通産省主導の国家プロジェクトに配属されることになった。電電公社(現在のNTT)を中心に国内のコンピュータメーカーが参加し超大型コンピュータのきょだいな開発を目指したプロジェクトだった。このプロジェクトのピーク時は、基本ソフトを開発する部門だけでも約200人、業務システムを開発する部門を入れると2000人、外注など関係会社を入れると20000人、プロジェクト関係者は全員で10万人以上いたのではないかと思われる。とにかく国の威信を賭けたプロジェクトだった。

4.6節 メンバのキャリアにびっくり

当然だが、参加メンバは東京大学・京都大学など一流の有名大学出身の博士過程・修士課程卒業者がひしめく超エリート集団だった。要するに、天才集団の中に凡才が掘り込まれた状態だった。こんな気持ちになったのは私だけではないと思う。

4.7節 シミュレータによる開発

プロジェクトはハードウェアとソフトウェアが同時並行に進んでいった。当然新型のコンピュータはないので別のコンピュータ上にシミュレータというものを作って擬似環境で実環境用のOSやアセンブラなどのプログラムを開発するという手順が取られた。天才の考えることが違うなと思ったが理にかなった方法だとも思った。

4.8節 はじめて見る実機1号

シミュレータによる開発が終わる頃、実機の1号機が出来上がった。電電公社の電気通信研究所に設置されて、関係各社で時間割を決めて使用することになった。サイズは先に述べたように各装置が大型家具並みに大きなものだったので大広間のようなマシン室が用意され凍えるくらい強力な空調設備が備えられていた。マシン室にはだれでも入れるわけではなく入室セキュリティはスパイ映画並みに厳しかった。最も驚いたのは、けたたましい音を立てながら1秒間に1ページくらいのスピードで印刷するラインプリンタと呼ばれる印刷装置で、1文字ずつ字を書くというより1行ずつ書くという代物だった。他の装置は筐体の中が見えるわけではないのでイメージが湧かないが、このプリンタは結果がわかるのでそのすごさに驚かされた。今の技術に比べれば幼稚なものでも当時は想像を絶する代物だと思った。同時にソフトウェアの成果には見えるものがないので地味な世界だなと感じた。その頃は、将来ソフトウェアが主流になるとは想像できなかった。

4.9節 開発の進め方

こんな大規模なプロジェクトを天才たちはどのように進めるのか興味があった。数年間は指導されるままに仕事をしていたが自然に分かった。上層部では大線表というスケジュール管理をしていて、それが下に行く毎に詳細な計画に落とされて我々のレベルでは1ヶ月と1週間の計画書にする。計画書には検討開発すべき課題を洗い出した検討項目一覧というものを作り、各項目毎に開始と完了の予定日を計画する。この計画は関係会社毎に作られる。その計画書に基づいて毎週決められた日時に各社が集まり、各項目の検討結果を持ち寄り仕様検討をして新たな課題を浮かび上がらせる。それを宿題として持ち帰り検討する。これを計画書にしたがって進めるのである。最終的には、構成設計書、機能設計書、詳細設計書など決められたドキュメントを作成してそれを検証して製造工程に移る。製造工程もプログラミングとテスト工程に分かれ、正しく動作することを確認するためのテスト項目を作り1つずつ検証していく。すべてが正常になって納品となる。当然、納品の時には受入テストがある。その他にも、設計を変更する場合に使用する設計要項変更要求書や各社間のインタフェースを定めるインタフェース仕様書やトラブルを記録するバグ票など細かくルールが決められていた。これは後で知ったことだがプロジェクトの進め方や管理法も学問的に整理されていたのだ。

4.10節 プロジェクトの全盛期

大規模プロジェクトの全盛期はデータベースが世界的に検討された時代である。当プロジェクトも世界の大学が研究している段階で実際に開発することになった。しかも実際の業務に適用するというのだからとんでもない計画である。その開発要員として参加した。今のデータベースに搭載されている機能のほとんどが当時検討したものだと思うと最先端のことをやっていたのだなと思う。当時はひたすらそのテーマに向かって走っていた。実用化システムも大きく2つの道があった。1つはTSS(タイム・シャアリング・システム)と呼ばれるもので、細かく利用時間をみんなで一見同時に使用しているようにするもの。もう1つはRTS(リアル・タイム・システム)で、早いもの順に即処理をするというもの。前者は科学技術計算サービスなど、後者は車検登録や社会保険システムなどに適用されたと記憶している。

4.11節 巨大プロジェクトの終焉

大規模プロジェクトの目的は、国産のコンピュータ産業を育てることであり、コンピュータメーカーに力がつけば役割は達成ということになる。参加各社はプロジェクトを進めるのと並行してその技術を自社製コンピュータシステムの開発に適用していたのはいうまでもない。したがって、プロジェクトの後半になるとベテランメンバが社内システム開発関連のために異動していき当プロジェクトの平均年齢は若返っていったが、逆に力不足になっていった。私は最後までこのプロジェクトに残ったメンバの一人である。電電公社が正式にNTT(日本電信電話株式会社)になったころ発展的解散となった。十分に国産技術が高められたことと、電電公社も民間企業となり、各社がライバル関係になったためプロジェクト自体の存在意義がなくなったのが理由だった。

5. 5章 最初の異動

5.1節 異動後のカルチャーショック

プロジェクトのメンバは、社内部署に配置転換されることになった。プロジェクトのメンバは自分の得た知識はドキュメント化して後輩や関係者に伝えるという教育を受けていた。私は新しいことが好きだったので検討成果をすべて後輩に引継ぎ新しいことを始めた。知識や経験を広く共有したほうが無駄はないと思い疑うことはなかった。しかし、民需事業部に異動して文化の大きな違いに気がついた。民需事業部では各自が得た知識やノウハウは誰にも教えないのだ。共同意識より競争意識が当たり前の世界で、人より多くの知識やノウハウを持っていることが実力の差となり出世にもつながるからだ。協力には必ず駆け引きが伴っていた。多分この経験は私だけのものではなかったと思う。早く民需に異動した人のほうが民需事業部育成のリーダになれたので有利だったことも確かである。しかし、この環境の変化に対応できる柔軟性を持っているかどうかがその後の人生を変えることになる。その後は日本も欧米的に競争主義・実力主義が前面に出てきて駆け引き上手が実力と見なされる時代になっていったように思うが内部は火の車でどちらの体制が良かったのか今となっては分からない。

5.2節 パソコンの時代の到来

時代は、UNIXというOSを使ったワークステーションという新しいコンピュータが台頭してきた。IBMがとは全く違った道を歩んで発展してきたOSで大学や研究所で使われてきたものであった。世界中がワークステーションと称してUNIXをOSとするシステムを開発し始めた。我々のメンバもこの世界に入っていった。

5.3節 独自仕様から標準仕様へ

コンピュータの世界は、各社独自の仕様全盛期から標準化の時代へと移行していった。また、マイクロコンピュータやメモリの製造技術の飛躍的な進歩がコンピュータの小型化を可能にし、メインフレームと呼ばれていたIBMに代表される大型コンピュータが次第に小型コンピュータにとって変わられる時代が始まった。UNIXのOSとはまったく別の世界で、パーソナルコンピュータが出現した。個人で遊べるパソコン時代の始まりである。マニアはパソコンに夢中になったが技術者だけの玩具でしかなかった。理由はソフトがなかったからである。そこに登場したのがマイクロソフトである。パソコンOSを作りBASICというだれでも簡単に使えるソフトを流通させた。これがパソコンの始まりである。最終的にはUNIXが大型サーバシステムとして生き残り、パソコンがクライアントと言われる個人利用の世界の標準になっていった。このころ、私はこのような技術競争に対する興味はなくなっていたので、個人的にはパソコンを楽しみ、仕事としてはユーザの業務システムの開発に興味が移っていた。

6. 6章 海外時代

6.1節 海外事業へ

仕事の大きな変化を希望して海外事業に進むことにした。自分にとって新しい分野で当時は世界の60%のシェアーを持っていたと当時の社長は自慢していた。事業としては結構期待して異動したが、開発体制は10年以上も前にタイムスリップしたような古い慣習がまかり通っていて、民需事業部への異動のカルチャショック以上に驚いたことは今でも忘れない。我々が10年以上もかかって作り上げてきた開発標準が全く広まっていないことをしって組織は人の資質だと思った。初めて手がけた仕事は、開発部隊が作り上げたものをユーザのサイトに納める仕事だったが、予想通り惨憺たる品質のものだった。当初2週間で終わるといわれて10名ほどのメンバを連れて現地入りしたが、3ヶ月かかっても終わらない始末だった。

6.2節 体制の変更へ

制の変更へ一旦帰国して、開発体制と納品体制を変更した。徹底した国内テストと品質管理をし、品質基準に達しない限り現地へは行かないように変更した。テスト状況を知るためにバグ検出報告を徹底させようとしたが、担当者や外注からは「我々はバグを出すような会社ではない。」などと拒絶されたことを覚えている。私は、人は間違いを起こすもので標準的に人はこのぐらいのバグ(間違いのことをこう呼ぶ.)をだすという基準値をもっていたので、それに達したかどうかで品質を判断する仕組みを導入しようとしただけだった。メンバにとってはバグをだすこと=恥という文化だったようだ。

6.3節 2度目の現地入り

徹底した国内テストに合格し、現地作業のリハーサルを国内で済ませて万全の体制で現地入りを計画した。最短計画は1週間で予期せぬトラブルのための予備として1週間、計2週間で終える計画を部下4名でやるというもの。事前準備部隊と本番要員とに分けて2日ずらして現地入りを計画した。それまでは忘れ物をした場合、誰かが飛行機で届けるという無駄をしていたので呆れたことを覚えている。このように綿密な計画をしたが同行するメンバの立候補者がいなかった。前回の経験から敬遠したのである。何とか同行メンバが集まり出発した。結果は、予想通りで国内と現地の装置の違いでトラブルはあったものの、それは予備計画の範疇で解決し2週間で帰国した。3度目以降の同行立候補者が溢れるようになり逆に選別に苦労することになった。

7. 7章 管理職時代

7.1節 管理職試験

この会社は管理職になるのに試験があった。1年間近く受験勉強をして本番に臨むのである。私もその機会を得て受験することになった。重箱の隅をつつくような試験で落とすための試験だった。したがって、ケアレスミスをしないことが重要で先輩たちが合宿などを計画して訓練をしてくれた。おかげさまで無事合格した。合格すると年収が下がるというのが先輩たちの話だった。残業費がつかなくなるからだ。私は残業主義ではなかったので年収は上がった。

7.2節 組織のIT化

世の中はIT(インフォメーション・テクノロジ)の時代で、パソコンや標準システムの時代に切り替わろうとしていた。にもかかわらず社内の民需事業部は過去の遺物に固執していた。自分の経験とノウハウを隠すという文化だから新しい変化を嫌うのは当然のことである。ITを売り物にしている会社がITを知らない大問題が表面化してきたのである。まずは自分の部署にパソコンとネットワークと電子メールを導入することにした。これで関係者や海外ともメールで連絡が取れるし報告書も印刷できる。しかし、これを普及させるのが大変であった。当時は、机の上には何もおかずに帰るのが美徳とされていたから、パソコンやモニタが机上に放置されていることが非難の的になった。機械類はマシン室に移せという命令が出たくらいである。今では当たり前だが電子メールが理解できない上司たちにとっては単なる機械でしかなかったのである。

7.3節 状況を一変させた社長の一言

こんな攻防がしばらく続いた後、大きな変化が起こったのである。社長命令で管理職以上はパソコンを持ち電子メールを使うことを義務化したのである。この鶴の一声が環境を一変させた。今まで非難していた上司たちもこっそり相談にきたので面子をつぶさないように面倒をみることで社内の環境が整備できた。中間管理職とトップ違いを痛感したのもこのときである。

7.4節 その後

これで体質が変わったわけではない。人にはプライドがあり駆け引きもあり、組織全体として変わるには時間がかかる。全体が有機的に働けばもっと効率よく改善されるのだろうが、人はそのようには動かない。その後のことについては、時期をみて追記していきたい。

8. 8章 趣味紹介

8.1節 スキー

はじめて凝った趣味はスキーである。20代は季節になると毎週スキー場に行っていた。年末年始はほとんどスキー場にいた。しかし、決してうまくはならなかった。もともと運動神経はいいほうではないが、出身が雪国なのでそれなりに滑れたといった方がいい。ただ、昼は寒い世界で滑って夜は暖かい部屋でお酒を飲みながら過ごしたかったのだと思う。

8.2節 ジャズ

学生時代の趣味がそのまま続いているだけである。昔はお金がないのでレコードで聴くのがほとんどだったが、社会人になり給料をもらうようになるとジャズクラブなどライブが中心になった。生演奏を聴くとステレオでは物足りなくなる。しかし、クラッシクは高尚過ぎたのかほとんど興味がなかった。

8.3節 パソコン

最初はDOSマシンと呼ばれるマイクロソフト系のOSを搭載したものを使っていたが、途中からマッキントッシュに変わった。機械ではなくアートという要素が強く味があると感じたからである。仕事ではDOSマシン、趣味ではマッキントッシュと切り替えていたが出張などでは自分のマックを持っていったことも多い。Windows2000が出たころまで主体はマックだったが、MaxOSXが出てアート色が薄れてきたことから主体がWindowsに変わっていった。しかし、最初に買った有名なマッキントッシュは今も元気に動いている。

9. おわりに

おわりに

本書は、自分の歴史や生き方を子供達や孫たちに残すために書いている。まだ、人生の途中なので完成していないが、徐々に完成させていきたいと思っている。これを読むことで家族や一族の伝統が引き継がれ一族の強い結びつきが形成されることを願っています。