戻る

上野 花子

生年月日 1957-02-05
両親 上野太助・上野花代
趣味 スキー・スケート

上野花子の「私の歴史館」

0. はじめに

はじめに

世の中には、男性の自叙伝や自分史はありますが、女性はほとんど書いてはいません。男性社会の中では女性はほとんど書き残せるような歴史はないかのように思われていたように思います。しかし、母親のことを思い出そうとしたとき、知らないことがあまりに多いことに気がつきました。平凡であっても子供に伝える自分の歴史は残しておかないと子供が自分を振り返ったときに何もないことに気づいて今の私と同じ思いをすることになります。そこで、私自身の飾りのない人生をここに記録したいと思います。

1. 1章 誕生

1.1節 産声のとき

昭和32(1957)年2月5日、上野花子は父・上野太助、母・花代の長女として東京・府中に生まれました。当時、父は30歳、母は27歳のときの子供でした。そのとき、兄弟は2歳の兄が一人いました。兄の名前は太郎といいます。二人とも典型的な日本字の名前でした。かなり後になって聞かされたことですが、兄が生まれとときは始めての男子だったので父は飛んできたのに、私のときは女かといって会社に行ってしまったそうです。へらへらと言われたので憎めなかったのですが、失礼な・・・と思いました。父の育った時代はまだ男子が大切にさることですから仕方がないかもしれません。

1.2節 母の語る私の幼年期

父は以前いた会社をやめて無職でした。母は小学校の先生をしていたので母が生計を立てていたような状態でした。父はその後知り合いのひと数名と繊維会社を作ったそうです。戦後の復興期だったので父の会社は順調に大きくなって生活自体はあっていしていたそうです。子供が二人になり母は典型的な日本家庭のとおり教員をやめ専業主婦になったそうです。これは後で聞いた話ですが、実際は父の強い希望でやめることにしたらしい。母自体は当時の女性としてはモダンな感じで仕事を続けることを希望していたのですが、まだ回りは封建的だったのだと思います。そのおかげで私は結構自由に育てられることになります。

2. 2章 東京の田舎生活

2.1節 府中は田舎だった

生まれたころの府中は田舎で、畑の真ん中に家が建っていて、今のように民家が密集しているような住宅風景ではありませんでした。その中で私は結構野生的な子供時代をすごしたことを覚えています。庭には柿の木があり秋になると柿をとって食べていました。

2.2節 競馬場にピクニック

そんななか昭和33年に東京競馬場が府中に作られたそうです。父は競馬狂ではありませんが、競馬場の広場に弁当を持っていってピクニックをするのが面白かったようで、私を連れて競馬場に行きました。父は予想をするのですが馬券は買わないへんな人で、叔父さんたちから「賭けないで何が面白いんだ。」とからかわれていましたが、それは死ぬまで変わりませんでした。私はただ緑のなかでお弁当が食べられて、走り回れて、お馬さんが走っている姿を見て、無邪気に楽しんでいただけですが、連れて行ってもらえることが一番嬉しかったように思います。

2.3節 練馬区に引越し

4歳のとき、父の仕事の関係で東京のなるべく中心に引越しすることになりました。いろいろ検討した結果、練馬に土地を購入し平屋の家を建てました。一応、庭があり遊び場には不自由しませんでした。そのとき持ってきたのか新しく植えたのかは忘れましたが柿の木は今も大きく育っていますが、柿を食べるのは今ではすずめばかりです。親にとっては東京の中心に引っ越したつもりでしょうが、子供の私には府中も練馬も余り違いはありませんでした。練馬区は板橋区から分かれてできた23番目の区なので一番田舎だったのでしょう。

2.4節 健康な私と喘息の兄

私は健康に恵まれていたのか大きな病気をした記憶がありません。それより、兄が小児喘息でいつもひーひーぜーぜーと苦しんでいたのを覚えています。友達のうちでも男の子の方が喘息持ちが多いようです。幸い兄も大人になる頃までには喘息を克服し、今では180cmもある大男になっています。

3. 3章 幼稚園時代

3.1節 幼稚園

昭和38年4月、練馬幼稚園に入園しました。母親に付き添われながら徒歩で通園しました。幼稚園では何か新しいことを教えてもらえることを密かに期待していた私は、お遊戯や歌ばかりの毎日に結構がっかりしました。これならうちで遊んでいた方が面白いと思ったからです。子供のくせに結構ませていたのでしょうか。なので、幼稚園での楽しい記憶は余りありません。今思うと親のほうが子供から解放される時間が取れて嬉しかったのではないでしょうか。私も親になってそう思ったので間違いないと思います。その間に掃除、選択、そして読書などに時間が使えたからです。

3.2節 遠足

遠足では動物園に行ったときのことが一番印象に残っています。小さいころから競馬場で馬を見ていたせいでしょうか、動物は嫌いではありませんでした。その中でなぜか爬虫類が一番好きでした。もう少し大きくなった頃、兄は蛇を気持ち悪がっていました私は平気でさわれたので周りの男の子から変な目で見られていたようです。私は結構優越感を持っていました。

3.3節 友達

この頃、気の会う友達が2人できました。一人は渋谷今日子さんと目黒明日香さんです。朝も昼も夜も、我が家に着たり相手の家に遊びに行ったり、とにかくいつもいっしょに遊んでいました。今では住む場所は離れ離れにら利増したが、交流は今も続いています。

4. 4章 小学校時代

4.1節 入学式

私立か公立かで迷った末、近所の公立の小学校に行くことになった。近くの方が通学がらくだし安心だからです。父は仕事が忙しいという理由で入学式には母が来てくれました。残念ながら何をしたのか覚えていません。クラスは1年1組で担任は品川先生でした。

4.2節 体育系女子

勉強は算数・理科は苦手で、国語・社会の方がましでした。しかし、どちらかというと勉強より体育の方が好きでした。運動神経はいい方で何でもうまくこなせたと思います。今で言うとことの体育系の女子でした。

4.3節 運動会ではいつも代表選手

運動会は、団体競技や遊戯よりは競争の方が得意で、50メートル走やリレーではできるかぎり出場して、ほとんど1番だったと思います。運動会で一番楽しかったのは昼休みの弁当の時間です。小学校の運動会はなぜか日曜日なので父も母も来てくれてみんなでお弁当を食べるのが楽しみでした。外でお弁当を食べる楽しさは競馬場のピクニックで経験していたのですが運動会のお弁当はまた格別でした。それが中学になると運動会が平日になり親も来ない寂れたものになろうとはこのときは知る由もありません。

5. 5章 中学時代

5.1節 練馬中学に入学

中学も近所にある公立中学校に通うことになりました。学業は相変わらず体育系がとくで生成期全体としては小学生の延長のままでした。授業の中で一番興味を持ったのは英語です。初めて外国語を本格的に習うですから無理もないとおもいます。しかし、その興味も長続きせず大人になっても使いこなせる英語力はありません。中学・高校・大学と10年も英語を習うのに話すこともできない日本人の一人になってしましました。

5.2節 関西へ修学旅行

もうひとつ思い出にあるのは修学旅行です。小学生のときの修学旅行は余り記憶にありません。多分ただ連れて行かれただけだからでしょう。中学生になると自主的に考えられるのでどこで何をしたかある程度思えています。やはり、奈良の大仏と京都のお寺周りです。不思議と奈良では大仏しか覚えていません。京都は定番の清水寺や金閣寺やどちらかの本願寺などのお寺の記憶がおおいです。京都の方が交通の便もよく動きやすかったこともあるのでしょう。

5.3節 高校受験勉強

中学までは義務教育なので何の苦労もなく進学できましたが、高校の場合は試験があって合格点以上でないとその学校に入学できないことを始めて知りました。しかし、希望する学校も特にあるわけでもなく、またも近くの高校を選んでとにかく合格しました。始めた味わう受験戦争でした。中学3年生になると成績別か志望校のランクべつに補修授業などをしてくれて、レベルに応じた教え方をしてくれる特別時限があったことを覚えています。

6. 6章 高校時代

6.1節 練馬中学校へ進学

中学と高校で大きく違ったのは異性に対する意識です。少しずつ色気を出そうとする自分に気づき始めます。当然のことですが、体育系の知能の私に色気系が芽生えるのですから勉学に励めない日歩が続くのも無理もない状態でした。それは女子に限らず男子も同じようでした。ここで勉学に集中できる子とそうでない子で大きく進学のコースが分かれてしまう結果になる予感も2年生の後半になってくると現実味を増してくることに気づきことになります。

6.2節 本格的に受験勉強

2年生の後半になると進路位は定めないといけなくなりました。しかし、2年もサボっていると天才でもない限り大きな方向変換は無理です。大きく分けると就職組みと進学組みに分かれ、進学組みでも有名大学が駅弁大学に分かれます。私は進学組みの後者を選択しました。当時は女子だから短大でもいいという考えもかなりありましたが、4年生の大学で実践女子大を受験するkとにしました。

7. 7章 大学時代

7.1節 無事に実践女子大学へ

昭和50年4月、私は実践女子大学に無事入学した。これでようやく受験地獄から開放されたという実感が湧いてきました。当時の大学生の気持ちとして大学受験が終わるとゴールインというくらいの感覚だったと思います。なので、大学時代はこれから遊ぶぞ~という間違った気合の入った学生がほとんどだと思います。当然、私もその例に漏れずその道に進んで青春を謳歌することになったしだいです。

7.2節 オフコースの追っかけ

オフコースの小田和正さんの声に引かれてオフコースの追っかけの日々が始まりました。専攻は被服学科だったのでそれほど勉強せずともこなせたことも助けになったのでしょう。大学時代はオフコースに始まりオフコースに終わったようなものでした。

7.3節 スケート部

入学すると各部からの勧誘がありました。当然、体育系の私としては体育系からのお誘いが多く興味もありました。なぜか今までやっていた陸上系ではなくフィギアスケートを選んでいました。小さいうちからやらないと上達しないと言われましたが、なぜか興味がありその世界に入っていきました。残念ながらオリンピック級の力を付けるまでには至らなかったのですが、国大にでるくらいまでは上達し、キャプテンまでやることになりました。

8. 8章 社会人時代

8.1節 謀商社入社

大学卒業後は、東京にある商社に一般事務として就職しました。その当時の会社はまだ男社会で女はお茶組みと思っている男子社員も多かったと思います。女子社員のほうも結婚相手探しが目的の人も多く、結婚することをゴールインと呼んでいたくらいでした。

8.2節 ウーマンリブ

会社の方も女子社員は戦力として考えない時代でしたから仕方がないといえばそれまでですが、ウーマンリブという女性解放運動の世界的な流れには逆らえず徐々に女性の社会進出が進んで、会社内でも重要なポストに付く女子社員も増えてくることになります。ウーマンリブの最初の影響を受けたのは専門職の女性進出です。残念ながら、私は専門技術のない一般事務なのでその流れを直ぐに受け止めることはできなかった職種だと思います。

8.3節 スキーに狂う

このとき、スキーにハマり始めました。冬になれば雪山を目指して土日スキーバスに乗ってスキーに行っていました。志賀高原が大好きで毎週行っていた頃もありました。スキーとスケートは体重のかけ方が全く逆になります。スキーは外足に重心を乗せますがスケートは内足に重心を乗せます。私はスケートの癖が抜けずどうしても内足に体重を乗せてしまうため、上達するのに結構苦労したことを覚えています。スキー狂はかなり重症で、最初の会社を辞めて結婚するまでの間、冬は志賀高原にスキーレッスン付の住み込みアルバイトに行っていたほどです。

9. 9章 結婚

9.1節 28歳で結婚し専業主婦へ

結局、無事にその会社で相手にめぐり会い結婚しました。相手は品川太郎で32歳の真面目そうな男性で私は28歳になったばかりです。自分ではまだ早い気もしていたのですが、親やおばあちゃんが遅い遅いと急かすのに負けたのかも知れませんが無事に結婚し、一姫二太郎という典型的なパターンで子供にも恵まれ今に至るという状況です。

10. おわりに

おわりに

本書は、自分の歴史を子供達や将来の孫たちに残すために書いています。まだ、人生の途中なので完成していませんが、今後追記していき自分がエンディングを迎えるときには満足のいく完成版にしたいと思います。私という一人の人間の生きた証となり、同時に過去から末来へとリレーしていくことで家族や一族の強い結びつきの鎖の1つになることを願っています。